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大阪地方裁判所 昭和24年(ワ)2029号 判決

原告(反訴被告) 谷春雄

被告(反訴原告) 石川荒一

主文

一、被告(反訴原告)は原告(反訴被告)に対し、大阪市西成区東田町一番地に所在するパン焼窯一基並びにその附属品一式を引渡せ。もし右執行が不能なるときは、被告は原告に対し金四万円を支払え。

原告その余の本訴請求はこれを棄却する。

二、原告(反訴被告)は被告(反訴原告)に対し金一〇一、一六六円及びこれに対する昭和二五年五月二五日以降右支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

被告のその余の反訴請求はこれを棄却する。

三、訴訟費用は本訴反訴を通じこれを三分し、その一を原告(反訴被告)その余を被告(反訴原告)の各負担とする。

四、この判決は原告(反訴被告)の勝訴部分に限り仮に執行することができる。

被告(反訴原告)に於て金三万円の担保を供するときはその勝訴部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一、当事者の申立

原告(反訴被告、以下原告と略称する。)は、本訴につき、

被告(反訴原告、以下被告と略称する。)は原告に対し、金四万円及びこれに対する昭和二四年一〇月一九日より右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

被告は原告に対し大阪市西成区東田町一番地に存在するパン焼窯並にその附属品一式を引渡せ。もしこれが執行不能のときは被告は原告に対し金四万円を支払え。

との判決並に仮執行の宣言を求め、反訴につき、被告の反訴請求棄却の判決を求めた。

被告は、本訴につき原告の本訴請求棄却の判決を求め、反訴につき、

原告は被告に対し金三〇七、二五〇円及びこれに対する昭和二四年一〇月六日から右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

との判決及び仮執行の宣言を求め、更に右請求の理由のないことを条件として、

原告は被告に対し金一〇二、四〇〇円及びこれに対する昭和二五年五月二五日から右完済に至る迄年五分の割合による金員を支払え。

との判決並びに仮執行の宣言を求めた。

第二、当事者の事実上の陳述

(一)  本訴について、

(1)  原告は本訴の請求原因として次のとおり述べた。

原告は昭和二三年一二月上旬頃被告からその所有に係る大阪市西成区東田町一番地上木造瓦葺二階建家屋三戸一棟の中央一戸の家屋(以下本件家屋と略称する。)を賃料一ケ月金五千円の約で借受け且その際権利金名下に被告の要求に従い金四万円を支払つた。右賃料並に権利金については監督官庁たる大阪府知事の認可を得て居らない。

本件家屋は昭和二四年九月五日午前一一時三〇分頃火災のため焼失し、前記賃貸借契約は終了した。

右権利金は地代家賃統制令に違反する不法原因給付であつて、被告側のみに不法原因が存するから、原告に返還さるべきものである。仮に然らずとするも右の如く賃貸借契約が終了した現在では右権利金は当然原告に返還すべきものである。然るに被告はこれが返還をなさないから、被告に対し金四万円の支払とこれに対する本件訴状送達の翌日たる昭和二四年一〇月一九日より右完済に至る迄民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

又本訴請求の趣旨記載のパン焼窯及附属品は原告の所有であるところ、本件家屋内に据付けていたが本件家屋焼失後被告は不法にこれを占有し原告の再三の請求に拘らずこれを返還しない。よつて原告は被告に対し右物品の引渡しとこれが引渡不能のときの代償としてその時価である金四万円の支払いを求める。

(2)  被告は原告の右主張に対し次のとおり答弁した。

原告の本訴請求原因事実中、原告主張の家屋を、主張の日頃、主張の賃料の約で原告に賃貸したこと、権利金として金二万円を受取つたこと、右賃料並に権利金については、大阪府知事の認可のないこと、主張の日時に本件家屋の焼失したこと、及び主張のパン焼窯が焼跡に存在することはそれぞれ認めるが、その他の主張事実は争う。

権利金については当初四万円の約束であつたが結局二万円しか受取らなかつたものである。又原告所有のパン焼窯については焼失直後に原告がこれを焼跡から持ち去ろうとした際消防署及警察から現場検証の終る迄現状のままにしておくよう命ぜられている旨を告げてこれを止めたのみであつて被告がこれを占有している訳ではない。

又権利金の交付は不法原因による給付であるから原告はこれが返還を請求できないものである。仮りに被告に支払義務ありとすれば被告は原告に対し反訴請求の債権を有するからこれと対等額に於て相殺の意思を表示する。

(二)  反訴について、

(1)  被告は反訴請求の原因として次のとおり述べた。

被告は昭和二三年一一月中旬頃原告主張の如き三戸建住宅一棟を新築しその中央一戸(本件家屋)を原告に賃貸していた。そもそも右家屋は第三者に賃貸する目的で建築したものではなかつたけれども原告が菓子類の闇製造をするにつき使い度いと懇請するので被告に於て使用する必要の生ずるまでとの約で一時原告に賃貸することにしたのである。然るに昭和二四年七月頃原告が右菓子製造を廃止し且被告にも自己使用の必要が生じたので、同年八月頃より度々本件家屋の返還を請求していた。しかし原告は右要求に応ぜず却つて不当にも何等被告の承諾がないに拘らず同年九月一日本件家屋を訴外松浦国雄外二名に権利金三二、〇〇〇円を取つて転貸した。而して同月五日右訴外人等は本件家屋で甘味料ズルチンを製造中過失によりベンゾールに引火したため、本件家屋より出火し本件家屋のみならず被告所有の一棟三戸の家屋全部を焼失したのであるが、原告は本件家屋を右訴外人等に転貸するにあたり同人等が失火の危険の強いベンゾールを使用してズルチンの闇製造を行う者なること及びベンゾール使用には法令の制限あることを熟知していたのであり、これを知りつつ、しかも前記の如く被告が正当に明け渡しを請求しているに拘らず被告に無断で本件家屋を右訴外人等に転貸し、その結果火災によつて右家屋を焼失せしめたのであるから、原告はあたかも被告から菓子製造用に供するとして賃借した家屋内で法令に違反してベンゾールを用いるズルチンの製造を行い、ベンゾールに引火のため右家屋を焼失したと同様である。即ち原告は右訴外人等の失火につき自らにも重大な過失あるものとしてその責に任ずべく、そうでないとしても被告の承諾なき右転貸は不法行為であるから、その不法行為の結果生じた右失火による損害についてその責に任じなければならない。

被告は右家屋三戸を新築費用金七五三、七五〇円で建築したものであり焼失当時の時価は少くとも右金額以下ではないものと見るべきところ、焼失により火災保険金四四六、五〇〇円を受領したから差引金三〇七、二五〇円が被告の受けた損害であり且右損害については昭和二四年九月三〇日原告に到達の内容証明郵便をもつて同年一〇月五日迄に支払うべく催告しているから、被告は原告に対し右損害の賠償と右期日の翌日たる同月六日以降支払済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

もし右不法行為に基く損害賠償請求が理由がないとしても、原告は被告に対し賃貸借終了のときに於て賃貸物である本件家屋を返還する義務を負つていたところ、本件家屋の焼失により右返還義務は履行不能となつた。而して本件家屋焼失の原因については前記の如き事情であるから右は原告の責に帰すべき履行不能である。これにより被告の受けた損害は前示総損害の三分の一即ち一〇二、四〇〇円である。

而して右損害については昭和二五年五月二四日本件口頭弁論期日に支払の請求をした。よつて被告は原告に対し右不法行為の損害賠償請求が理由がないときの予備的請求として原告の責に帰すべき本件家屋返還義務の履行不能に基く損害の賠償と右催告の翌日たる同月二五日以降支払済に至る迄民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

(2)  被告の反訴に対し原告は次のとおり答弁した。

被告の反訴請求原因事実中原告が賃借していた本件家屋を被告主張の訴外人等にその主張の日以後使用せしめたこと、同人等の過失により本件家屋を含む被告所有の家屋三戸が焼失したこと、及び原告が本訴請求原因中主張せるところに合致する事実はいずれも認めるがその余の事実は争う。

原告は本件家屋に於て菓子製造を行つていたが、これが統制法令に違反し且そのため検挙されるに至つたので、遂に右廃業を決意し不用になる本件家屋につき被告に権利金の返還もしくは老舗譲渡についての承諾を求めたが被告より拒絶せられそのまま数ケ月間休業のまま過したが、その間も月五千円の賃料は容赦なく取立てられ且右権利金四万円、パン焼窯、畳建具諸造作等投下資本の回収不能となつたので止むなく右訴外人等に本件家屋の賃借権を原告が投下した造作費用等を含めて金三二、〇〇〇円で譲渡したものである。

而して本件の如く家主が賃借人から権利金を受領し、且その領収証を交付せず、又建物内部の畳建具一切は賃借人の負担に於てその好むがままに設備を施すべく定められた賃貸借契約に於ては、予め賃借権即ち老舗の譲渡を承認したものと云うべきである。仮に予めの承諾があつたと云い得ないにしても、右の如き契約にあつて原告が家屋明渡を申出ているにも拘らず被告が権利金返還に応じないに於ては原告の賃借権譲渡は正当な行為と云うべく、これを拒絶する被告の態度は権利の濫用である。仮に原告の賃借権譲渡が不当であるとしても、被告は本件家屋の近隣に居住し且つ被告の使用人である訴外谷村茂一郎は本件家屋の隣りに居たのであるから被告は右譲渡の事実を充分知つていたと見るべく、知りつつ異議を述べないのであるから右譲渡につき暗黙の承諾をなしていたものである。以上の理由により原告の右訴外人等に対する本件賃借権譲渡は適法になされたものであり、従つて原告は右譲渡のときから本件賃貸借関係より離脱したのであるから訴外人等の過失につき不法行為責任をも債務不履行責任をも負うべき理由はない。

又原告が訴外人等に賃借権を譲渡するについては同人等が甘味料の製造をすることは知つていたが其の操作方法は全然知らなかつた。仮に原告に過失ありとするも重過失はないから「失火ノ責任ニ関スル法律」により原告は不法行為並に債務不履行に対する損害賠償の責任を負うことはない。

仮に原告に損害賠償の責任ありとしてもその額は争う。焼失家屋の時価についての被告主張事実は否認する。被告は本件家屋を含む三戸の家屋に四五万円の損害保険をかけていたのであるから右焼失当時の家屋時価は四五万円で被告は既に家屋焼失による損害の補償を得ている筈である。又前示訴外谷村茂一郎名義で被告は右家屋につき金二五万円の火災保険契約を締結し該保険金は領収済である。更に被告は火災直後訴外松浦から同人所有に係る箪笥外家財道具衣類等数十点時価合計一五万円以上を受取つている。以上通算するに被告は本件火災による損害として主張する七五万円以上の補償を受けて居り現在何等の損害も残存していない。仮りに現在尚損害が残存するとしても権利濫用と云うべき被告の前示態度は過失相殺の原因として斟酌せられ度い。仮りに尚原告に賠償責任ありとすれば原告は被告に対し本訴請求の債権を有するからこれと対等額における相殺の意思表示をする。

第三、〈立証省略〉

理由

第一、原告の本訴請求についての判断、

昭和二三年一二月上旬頃、原告が被告から本件家屋を賃料一ケ月金五千円、権利金四万円の約で賃借したこと、同日頃右約旨に従い原告が被告に対して権利金を交付したこと、(但しその金額については二万円の限度でのみ争がない。)右賃料並に権利金については監督官庁たる大阪府知事の認可のないこと、原告が本件家屋で統制違反の菓子類製造を行なつていたこと、同二四年九月一日頃原告が訴外杉浦外二名に本件家屋の使用収益を許したこと、同月五日午前一一時三〇分頃右訴外人等の過失により本件家屋より出火し、被告所有の本件家屋を含む一棟三戸が焼失したこと及び原告所有のパン焼窯が主文記載の地上に存在することはいずれも当事者間に争いがない。よつて以下原被告主張の各請求につき判断する。

先ず原告主張の権利金の返還請求につき判断する。

原告は被告に対し権利金として金四万円を交付したと主張するけれども、原告本人尋問の結果並びに原被告本人双方対質尋問の結果中右主張に副う部分は証人谷村茂一郎の証言及び被告本人の供述に照し直ちに信用できず他にこれを認むべき証拠はないから、原告が被告に交付した権利金は前示争なき二万円であつたと見なければならない。而して本件家屋の賃貸借当時にあつては家屋の構造、使用目的の如何に拘らず賃貸借に関し貸主が借主から権利金の交付を受けることは地代家賃統制令第一二条の二により禁止されているのであつて、右規定が強行法規であることは勿論であるから、かかる権利金授受契約は無効であり被告は法律上の原因なくして利得したものと云うべきである。しかしながら右規定は国民生活に於ける住宅の重要性に基き、戦後住宅難に便乗して借家貸主が多額の権利金を要求し他方資力なき多くの国民が住むべき家に困窮せる実情に着目して、かかる状態を排除し借家関係の法的規制により国民生活の安定を図らんとする趣意に出でたものであるから、これに違反する右権利金の交付は、即ち公序良俗に違反するものであり、民法第七〇八条にいわゆる不法の原因の為め為したる給付であると云わねばならない。而して原告は右不法の原因は受益者たる被告の側にのみありと主張するけれども原告の全立証をもつてしても右主張事実を認めることができず、却つて証人谷村茂一郎の証言原告及び被告各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を綜合すると、被告は本件家屋を他人に賃貸する目的で建築したのではなかつたけれども、原告の懇請によりこれを原告に賃貸したものなること、その際原告は大阪府知事の認可なき賃料五〇〇〇円の定め、及び権利金の交付が法律に違反するものなることを知つていたこと、原告が本件家屋を賃借したのは、統制に違反する菓子類製造をなし、それを被告に卸売りするためであつたことを認め得るのであつて(原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は措信せず、他に右認定を左右する証拠はない。)、かかる事実からすれば、むしろ被告のみならず原告の側にも不法の原因があつたものと考えるのが相当である。よつて原告の右主張は採用することができず、原告の不当利得を原因とする権利金返還請求は理由がない。

原告は又賃貸借契約の終了を原因として権利金返還を請求するがそもそも権利金なるものは、当事者間の特約その他特段の事情がない限り、賃貸借契約が終了してもこれを返還しない趣旨の下に交付されるものであり、その故にこそ権利金の交付が禁じられるものと解すべきであるから、右の如き特段の事情につき何等の主張立証をなさずに、漫然賃貸借契約の終了のみを原因として権利金の返還を求める右請求は主張自体理由がない。即ち原告の権利金返還請求は全て失当である。

次に原告のパン焼窯引渡請求及び引渡の執行不能のときの代償請求につき判断する。

被告本人尋問の結果によると本件パン焼窯が現在被告の占有下にあることが明らかである。これに反する証拠はない。而して右事実と前示争なき事実とを併せ考えると、これが引渡を拒み得る権利につき被告に何の主張立証もない本件に於ては、被告に対し所有権に基いて右パン焼窯及びその附属品の引渡しを求める原告の請求は理由がある。又原告本人尋問の結果によると、右パン焼窯の時価が金四万円を下らないことを認めることができるので、右パン焼窯引渡請求の執行不能の場合の損害賠償として被告に対し金四万円の支払いを求める原告の請求も理由がある。即ち、原告の本件パン焼窯引渡請求及びその代償請求はいずれも正当である。

第二、被告の反訴請求についての判断、

被告は訴外松浦等が過失により本件家屋外二戸の家屋を焼失せしめた行為につき原告もその責に任ずべきであると主張するけれども、個人責任の原則を採る我が民法下に於ては、特に明文の規定ある場合を除いては、他人の行為につき不法行為責任を負うことがないこと勿論であり、被告主張の事実をもつてしては、右特別規定ある場合のいずれに該当するものとも認められないから、被告の右主張はそれ自体理由なきものと云わねばならない。更に被告は原告が被告の承諾なくして訴外人等に転貸した行為が不法行為である旨主張しその損害の賠償を求めるので考えて見ると、転貸と火災との間に直接の因果関係はなく、被告は右転貸行為より通常生ずべき損害の賠償を求めるのではなくして、右転借人たる訴外人等が失火の危険の強いベンゾールを使用して甘味料の闇製造をすると云う特別の事情に基き本件家屋等焼失による損害の賠償を求めるものであつて、結局斯る危険な作業をする者に転貸したことに原告の過失ありとして右火災の責を原告に帰せしめんとするものであるから、かゝる場合にも「失火ノ責任ニ関スル法律」の適用があるものと解さねばならない。蓋しそうでなければ原告直接の失火の場合と権衡を失すること著しいからである。即ち右無断転貸が不法行為であるとしても、右焼失をもつて右不法行為の結果なりとし、原告にその損害の賠償を求めるためには、少くとも原告に重過失あること、即ち原告に於て相当の注意を用いなくとも容易に右焼失を予見し且回避し得たことを被告に於て立証せねばならないのである。而して被告の全立証を検討しても転貸当時原告に右の如き重過失のあつたことを認めることができない。もつとも証人松浦国雄の証言並びに原告本人尋問の結果によると、訴外松浦等は当時ベンゾールを使用して甘味料等の化学薬品製造をしていたこと、原告は右訴外人等が化学薬品製造をする者なることを知つていたことを認め得るのであるが、しかし原告は右製造の方法については何も知らなかつたことが前示証拠より明らかであるので、右の一事をもつてしては未だ原告に重過失ありとするには足りない。従つて右無断転貸を不法行為であると主張し本件家屋等焼失の責を原告に帰せしめんとする被告の請求は爾余の判断をまつまでもなく失当である。即ち被告の不法行為に基く損害賠償請求は全て失当である。

次に被告の債務不履行に基く損害賠償請求につき判断する。

昭和二四年九月一日以降原告が本件家屋を訴外松浦等に使用せしめたことにつき、原告は本件家屋賃借権を右訴外人等に適法に譲渡したものであり、従つてそのとき以後原告は本件賃貸借関係より離脱したものである旨主張するが全証拠を検討しても右賃借権の譲渡があつたと認められる証拠なく、却つて証人松浦国雄の証言、原告本人尋問の結果によると、原告は本件家屋を訴外人等に転貸したものであり、その間に賃料の定めもあつたことが明らかである。仮に賃借権の譲渡があつたとしても賃貸人たる被告の承諾はなかつたと認められるから、いずれにしても原告は未だ本件賃貸借関係より離脱して居らず、賃借人として、被告に対し賃貸借終了のときに於て賃借物件たる本件家屋を返還する債務を負担していたのであつて、この理は右転貸につき被告の承諾があつたと否とを問わないのである。従つて、もし本件家屋の焼失による返還不能が原告の責に帰すべき事由によるものなるときは、原告は被告に対しこれにより生じた損害を賠償する義務があるものと云わねばならない。而して賃借人は善良なる管理者の注意義務に従つて自ら賃借物の使用収益を為す義務を負うものなるところ、原告は本件賃借家屋を無断で前記の如き危険な作業をする第三者に転貸したことは賃借人としての右善管注意義務を怠つたものというべく、結局原告は自らの責に帰すべき事由により本件家屋返還債務の履行不能を招いたものとして被告に対する損害賠償の義務を免れることは出来ない。原告は重過失のないことを理由に右賠償義務なしと主張するけれども、「失火ノ責任ニ関スル法律」は「民法第七百九条ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス」と規定しているのであつて、債務不履行による損害賠償請求には適用のないことが明らかであるから、原告の右主張は採用できない。よつて損害の額につき判断するに、証人尾崎吉次の証言並びに被告本人尋問の結果を綜合すると、本件家屋は昭和二三年一一月頃新築したものであり、両隣の二戸と共に一棟となり、且つ三戸いずれも同一構造なること、右三戸の新築費用は金七五万円余であつたことを認めることができる。故に本件家屋一戸の焼失当時の時価は少くとも右七五万円の三分の一以上であつたと見るのが相当である。原告は被告は本件家屋等三戸に金四五万円の火災保険をかけていたのであるから、その時価は金四五万円と見るべきである旨主張するけれども、火災保険の保険金額が必ずしも常に保険の目的物の時価と一致するものでないことは云うまでもないから右主張は採用の限りでない。而して被告が本件家屋等焼失により三戸分計四四六、五〇〇円の保険金を領収したことは被告本人尋問の結果によつて推認できるから、結局本件家屋焼失により受けた被告の損害は金一〇一、一六六円であると見るべきである。証人谷村茂一郎の証言によると右谷村は本件家屋の隣家に居住し自己の名において火災保険契約を締結し、本件火災により類焼したため保険金の支払を受けたことを認めることができるところ原告は右保険契約は実は被告の加入したものであつて、谷村は単に名義を使用せしめたにすぎず、従つて保険金も被告自らの収入するところとなつている旨主張するが、右主張事実に副う証拠がないので採用することができない。又証人松浦国雄の証言及びこれにより成立の認められる甲一号証によれば本件火災直接の責任者である訴外松浦がその損害賠償として同人所有の家財道具等数十点を提供した事実を認めることができるが、前示証拠に証人谷村茂一郎の証言並に被告本人尋問の結果を綜合して考えると、右は谷村に提供したものであつて被告に提供されたものでないことが明らかであるから、被告が右物件を受領することにより損害の填補を受けている旨の原告の主張は採用できない。更に原告は被告に対する権利金返還請求権のないことは前段説示のとおりであるから、被告が権利金返還を拒絶し、且つ本件家屋の転貸もしくは賃借権譲渡につき承諾を与えなかつたとしても、それをもつて直ちに本件家屋焼失につき被告にも過失ありとすることはできず、原告の過失相殺の主張も又採るに足りない。

原告本人尋問の結果中損害額に関する右認定に反する部分は前示各証拠に照し措信せず、他に右認定を左右する証拠はない。尚原告は右損害賠償債務と本訴請求の被告に対する債権との相殺を主張するが、前段説示のとおり、被告に対する権利金返還請求は理由がなく、パン焼窯引渡に代る損害賠償債権は右物件引渡の執行不能を条件とし従つて未だ履行期にない代償請求権が相殺適状にないことは多言を要しないから右相殺の主張も理由がない。而して右損害賠償については昭和二五年五月二四日本件口頭弁論期日に於て支払方請求されていることが記録上明白であるから遅くともその翌日たる同月二五日に履行期到来し原告は履行遅滞におち入つたものと見ることができる。即ち被告の債務不履行に基く損害賠償請求は、原告に対し金一〇一、一六六円並びにこれに対する昭和二五年五月二五日以降右支払済に至る迄民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で正当であり、その余の請求は失当である。

以上の如くであるから、原告の本訴請求はパン焼窯引渡請求及びこれが執行不能を条件とする金四万円の代償請求の限度で、被告の反訴請求は債務不履行に基く損害賠償請求中前示の限度でいずれも正当として認容することとし、その余の原告の本訴請求、被告の反訴請求をいずれも失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条仮執行の宣言につき同法第一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 三上修)

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